アメリカ社会の縮図を家族の中に見る -

我々には選ぶ権利はなく、我々のことは微塵も考えてくれない、我々の大統領が決まった。
not for Japanese people, not by Japanese people, but The president of Japanese people. Mr.オバマ。
この本を読むと日本がその意志に関係なく、アメリカ特急に乗ってしまったことがよく分かる気がする。格差社会、負け組と勝ち組、そして様々な心の病。
本が書かれたのが、1945年。
アメリカ社会の常に成功へと駆り立てられる何かが
登場人物たちに暗い陰を落としている。
母親アマンダは過去の栄光にすがりつき、
逆にローラは、人生のすべてを放棄しているかのようだ。
トムは、一見、若さ特有の夢を見ているように見えて、
成功という宗教に取り付かれている。
ウィリアムズがアマンダとローラに自分の母と娘を
投影させて描いたとするなら、夢を求めて飛び立ったトムは彼になる。
彼自身の人生を知ってしまうと、この物語は悲劇以外の何ものでもなくなってしまうのだが、
青年紳士の必死の訴えが、ローラに、少しでも届いたと信じたい。
劇ではなくまず原作を読んで欲しい名作 -

テネシー・ウイリアムズを一躍有名にした本作は色々な劇団によって演じられているそうですが劇という演出家の観念で作った物を見る前に是非とも原作を読んでイマジネーションを広げて欲しいと思いました。
語り手であるトム、過去の栄光が忘れられない母アマンダ、ガラスのように繊細な心の持ち主である姉ローラ。
作者が一番訴えたかったのはローラの人生なんだと思います。
繊細すぎ、傷つきやすいがために人生とうまく折り合いをつけられない姉。
姉の日常においてできることは彼女のコレクションのガラスの動物たちを世話することと、古い1枚のレコードを聞くこと。
ガラスの動物たちは彼女の心の反映であり、小さくて壊れやすいのです。
それは作者の実在する姉であるローズがモデルであることは明かです。
両親にロボトミー手術を受けさせられ、廃人になってしまった姉。
それを止められなかった作者は終生悔恨の情に溺れ、名声とは裏腹に私生活は荒れていたと言います。
そんな作者の魂の吐露が切実なまでに我々に訴えてきます。
生きている -

誰の胸にも、家族という重いしこりが居座っている。その急所をテネシー・ウィリアムズが直撃する。読み出したら止まらない。
過去の栄華を誇り、現実を否認し続ける母・アマンダ、足が不自由で極端に内気で婚期を逃した姉・ローラ、文学を愛しながらも倉庫係の職にしか就けない弟・トム――3人の運命から眼を離すことができない。三人は、わたしたちの心の中で生きている。彼らを笑える人は一人もいない。ラストシーンは悲しくて、泣ける。
正気をうしなった姉の面影を追い続けたテネシー -

テネシー・ウィリアムズの作品に登場する女性たちはいつも同じ。あまりに繊細すぎるがゆえに、現実に適応する能力を持たない女たちだ。
ガラス細工のように繊細で不器用なローラは、テネシー自身の姉(実際に精神異常者となる)をモデルにしたものだ。
テネシーは姉を見捨てた自分を生涯、悔やんでいたと聞く。叙情的な美しさ哀しさが、全編にみなぎっている名作である。
リリシズムあふれる自伝的な作品 -

テネシー・ウィリアムズほど米南部の伝統と悲しみを切実に描き出した劇作家はいないように思う。南北戦争に敗れた「負け組」の南部の出身であることに彼は生涯こだわり続けた。
彼の名声を一挙に高めた本作がいまだに世界各地で上演され、愛されているのはやはり登場人物たちの魅力によるものだろう。特にアマンダとローラは彼の母と姉がモデルであるだけに、鮮やかな実在感に満ちていていつまでも読者の心に生き続ける。
南部婦人の誇りと生活力を備えたアマンダと、ガラスのように繊細で現実に適応できないローラ。そして二人を愛しながらも批判的に見るトム。トムの最後の独白が感動的なのは、生きてゆくためにはある意味非情さが必要だと知りながら、デリケートな姉に深く共感せざるを得ない作者のジレンマと悲しみが私達の問題でもあるからだろう。どこにでもあるような家族の物語が、セリフの一つ一つによって静かな光を放ち、普遍性を帯びる。テネシー・ウィリアムズの原点というべき作品だ。